sapience.

藤島大『楕円の流儀』(論創社)より引用

ことに高校ラグビーで、たまに目にする「選手が思い切りプレーしないまま敗れる」例には考えさせられる。個々の素質は十分なのに、まさに心が解き放たれていない。「証拠を出せ」と問われたら困るが、長くスポーツを追っているとわかる。なぜ思い切りがないのか。それは日常的に選手たちが「減点法」で評価されているからである。いざ大試合なのに、次にくる仲間を信じてスパーンと前へ出切るディフェンスができない。抜かれると機械的にメンバーから外されたり、きつく叱られてきたからだ。だから、なんとなく自分のせいではないように抜かれるクセがついてしまっている。
指導者が自分の選んだ十五人を信じておらず、選手も指導者を信じていない。つまり不利や劣勢を乗り切る芯がない。そこにあるチームが力を発揮できずに負けたら、選手のせいでも、レフェリーのせいでもなく、絶対に指導者のせいなのである。ここだけは永遠に変わらない。

「絶対に指導者のせい」と、長く高校・大学でのラグビーの指導に関ってきた藤島大はそう言う。それは確かにそうだ。コーチは全権を持って、チームを作り、選手を起用する。全権に応える、全責任を負わねばならない。
だが、「指導者のせい」だからといって、選手が免責されるのは、高校生までだろう。
君らはもう既に大学生なのだ。コーチに自分の意見を言うこともできる。チームメイトに思いを伝えることもできる。自分が戦えるプレーヤーであることを、自ら示すことができる。
 
今日、君は示しただろうか。
戦えるプレーヤーであることを。
チームに貢献できる力のあることを。
勝利を求め全力を尽くすことを。
仲間とともに歩む意志のあることを。
 
チームは誰のものか?
 
コーチである塚本清彦のものだろうか。
キャプテンである佐藤卓哉のものだろうか。
エースである田村晋のものだろうか。
 
それはどれも正しい。
しかし十分ではない。
 
チームは常に、君のチームなのだ。
 
チームで練習を重ね、チームで大会に臨み、チームのユニフォームを着てコートに立つ。
このチームが、君にとって唯一のチームだ。
チームにとっての君と同じように。
 
シュートを決める。スクリーンをかける。ベンチで声を出す。裏方としてチームを支える。
君がチームに勝利をもたらすのだ。
チームの存在が、君に勝利の喜びをもたらすように。
 
君が戦うことが、チームが戦うことだ。
君のシュートが、チームに得点をもたらす。
君の声が、チームの力となる。
君の勝利は、常にチームとともにある。
 
しかし、君が挫ければ、チームも挫けてしまう。
君が敗北を受け入れてしまえば、チームの歩みも止まってしまう。
 
苦しい時には、チームメイトを見ればいい。
顔を見合わせる必要なんてない。
チームメイトと同じ方向を見た先に、君の挑むべき相手はいる。
 
失敗した時にも、前だけを見ればいい。
コーチの顔色を覗う必要もない。
必要なことは、ベンチで指示をくれる。
コートにあるうちは、コートでのことに全力を尽くせ。
 
チームの勝利に全力を尽くせ。
君自身の勝利のために、全力を尽くすのだ。